トヨタの車両開発にデータとAIの力を——経験と知見を、組織の資産へ

複雑化する車両開発と活かしきれないデータ

電動化やSDV化が進み、車両が生み出すデータは爆発的に増えている。その活用の巧拙がもたらす差は、AIによってかつてなく増幅されている。データに、つまりAIに向き合わない企業は、決定的に置き去りにされる。
世界有数の開発規模を誇るトヨタ自動車のパワートレイン領域も例外ではない。現場には試験、シミュレーション、実走行と、多様な領域から膨大なデータが集まる。だが、その活用には余地が残されていた。
車両開発は工程ごとに担当が分かれ、それぞれの持ち場で試験や計測、シミュレーションの結果を確かめながら判断をつないでいく。データを見ることは目的ではなく、開発を前に進める手段だ。そしてこの手段に、課題は二つの軸で現れていた。一つは効率。データを扱える人材でも、限られた開発日程で確かめられることには物理的な上限がある。本来やりたい深掘りや、品質向上に向けた検証までは手が届かない。もう一つは担い手の広がり。エンジニアリングの素養を持たない担当者は、結果に問いたいことがあっても術を持たず、難しく、時間がかかり、結局は諦めざるを得ない。データと対話する術の民主化が起きていなかった。
この構図は分析の道具立てにも表れる。あらかじめ指標を定義し、決まった切り口で可視化するダッシュボードは、いわば「静的な分析」。一度整えれば安定して使えるが、問いを変えるたびに作り直しが要る。一方、その場の問いに答える「動的な分析」は柔軟だが、一部の熟練者にしか扱えず、一件ごとに時間もかかった。
本来は、動的な分析で得た着眼点を静的なダッシュボードへ還元し、定点観測の精度を上げる。この行き来があってはじめて、分析の仕組みは育つ。だが動的な分析のハードルの高さが、その循環を止めていた。
 
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パワートレインの現場に必要だったのは、静的な分析を動的な分析へ置き換えることではない。担ってきた人材には、届かなかった量と深さを。担えなかった人材には、自らデータに問う術を。効率化と民主化の二軸を同時に引き上げ、動的な気づきを静的へ還元する循環を回すことだった。

見据える変革がぶつかる二つの壁

目指すのは個々の分析の高速化にとどまらない。だが現場には具体的な制約が二つあった。
まず時間。開発日程は詰まっており、問いが生まれてから答えに辿り着くまでの時間を、日々の判断は待ってくれない。そして二つ目は、車種・車両・部品をまたぐ横断的な課題管理の難しさ。ある車種の試験で見えた傾向が、別車種の設計にどう波及するか。本来つなげて見るべき情報が、担当領域もデータ基盤も異なるために、物理的につながらなかった。
散在するデータと知見を誰もが自然言語で問える形にすることは、この二つの制約への具体的な処方箋である。
 

 

誰もが自然言語で問える環境をつくる

Rubicon9では何が本当の課題かを見極めるところから、池宮様をはじめとする現場のメンバーと議論を重ねた。当初は、油圧やギア比といった専門的な指標にAIがどこまで踏み込めるのか、懐疑的な声もあった。だが対話と実装を深めるうち、手応えが見えてきた。問いの立て方さえ整えれば、AIが応えられる領域は思いのほか広い。そこから共に形にしたのが、自然言語で問えばAIが分析・可視化・示唆出しまで返す仕組みだ。専門知識がなくとも、現場の担当者がその場でデータと対話できる。
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ドメインの勘所を言葉にする

その手応えの中身は単純ではない。扱うのは車両開発ならではの専門的で複雑なデータだ。油圧の立ち上がりの癖、ギア比が燃費と加速性能のどちらに効くかの見極め、走行モードが切り替わる瞬間のデータの読み方。一般的な知識として言語化できても、「どの数値がどう動いたらどう疑うか」という勘所は、長年その領域を見てきた熟練者の頭の中にしかない。
難しさは頭の中だけではない。試験データ、シミュレーション結果、走行ログといった現場のデータも、形式や粒度がばらばらで、そのままではAIが扱えない。暗黙知を言葉にすることと、雑多なデータを整えること。この二つを並行して進める必要があった。
この勘所とデータを自然言語で問える形へ落とし込む作業は、いわば「蒸留」だ。知恵の蒸留と呼んでもいい。地道な工程だが、AIをどれだけ使いこなせるかは、この蒸留の深さで決まる。現場に入り込み、業務の形に耳を傾けながら現場社員と共に作り上げたのは、この蒸留の積み重ねだ。
 

 

検証のリードタイムは1〜2週間から翌日へ

従来は、どのダッシュボードを作るか検討し、データをまとめ、分析し、可視化し、示唆をまとめるまで、短くても1〜2週間を要した。それが自然言語の問いかけひとつで、計測翌日には報告できる水準へ縮んだ。ただし短縮は結果にすぎない。狙いはあくまで、判断の質を高めることにある。
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問いと判断が同じ場で完結する開発へ

変わったのは時間だけではない。データを集めて整える作業から解放された担当者は、「何を問うか」「どう判断するか」という人ならではの領域に力を注げるようになった。会議で生まれた問いにその場で答えが出るから、議論は止まらず深まる。
データやAIは人の判断を置き換えない。実走行データからユーザーの使われ方を読み解くように、人の問いと判断を深めるために働き始めている。

お客様の声

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トヨタ自動車株式会社 パワートレーン製品企画部 主任 池宮 孝彰 様
電動化やSDV化で、車が生み出すデータはこれからも増え続けます。そのときに問われるのは、目の前の分析を速くすることではなく、経験や勘に頼ってきた判断を、私たちの部門としてデータ起点に変えていけるかどうかだと思っています。
大きな設計図を描いて部門全体に広げる、というやり方には限界を感じていました。私たちのような歴史のある部門ほど、積み上げてきたものの慣性が強く、絵に描いた餅で終わりやすい。ベテランの勘所は、放っておけばその人がいなくなったときに消えてしまいます。蒸留から始めて、現場の実践を積み上げていくアプローチは、遠回りに見えて、実は本質に届く近道だと感じています。

三つのフェーズを超えた先に

ここまでの取り組みを、私たちは本質的な変革へ至る三つのフェーズの一過程と捉えている。暗黙知を言葉にする『蒸留』。その知恵を、AIとの自然言語のやり取りを通じて、誰もがアプリケーションのように操作できるマイクロシステムへ組み上げる『具現化』。生まれた個々のマイクロシステムを、重複や継ぎ目のない一体のフローへ統合する『結晶化』。この三つを超えた先に、AIが日々の業務のスタイルへ溶け込み、定着する「業務変革」が待っている。 
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青写真は仮説にすぎない

AIを起点にした大きな変革は、しばしば美しい青写真から始まる。用語やデータの意味を全社で統一する、いわゆるオントロジーの設計もその一つで、これ自体は目指す価値のある到達点だ。だがこれらを起点に据えると、三つの構造的な壁にぶつかる。
第一に、組織と人の抵抗。歴史ある企業の業務の型は、それ自体が強さだ。自然にやれば自然に品質が出る、その水準まで磨き込まれてきたからこそ、上から引いた設計図は現場に届く前に押し戻される。加えて、人の側にも抵抗がある。本来の業務と無関係な場所で知見だけを吸い上げられる、そう受け取られた瞬間、どれほど精緻な設計図も根づかない。
第二に、全体を一度に飲み込むことの不可能性。全社のデータを丸ごと放り込める万能の格納庫は存在しない。形式も粒度もばらばらのデータを一括で整える術もなく、その全容を解き明かせるドメインの専門家も現実にはいない。技術、データ、人材。どこから見ても、全体スコープは成立しない。
第三に、時間。青写真型の変革は、基盤が整うまで成果が出ない。三か年計画をのんびり待てるほど、AIの進化も競争も遅くない。基盤が完成した頃には、前提そのものが変わっている。
青写真が絵に描いた餅で終わる原因は、担い手の能力にはない。この三つの壁が、構造として立ちはだかるからだ。
この壁を迂回する道を、これまで企業は選べなかった。一つの改善に数千万円と数か月を要し、外れを前提に試作を重ねる発想は経済的に成り立たなかった。だから企業は、外れの許されない一発勝負として青写真に賭けるしかなかった。AIはこの経済性を一変させた。具現化が生むマイクロシステムは、描いては消せるスケッチに近い。試し、外れれば消し、また描く。この高速の使い捨てサイクルによって、現場の試行錯誤から積み上げる本来理にかなったアプローチが、ようやく実行可能になった。
必要なのは、トップダウンかボトムアップかの二択ではない。両者は同時に走らせる両輪だ。青写真という仮説を掲げ、現場の実践で検証し、更新し続ける。上から引いた線を、下からの実践で上書きしていく。
この両輪を機能させる鍵が具現化にある。その本質的な価値は、使えるマイクロシステムそのものではない。現場の実態とあるべき姿のギャップ、可視化されてこなかった負債を白日の下にさらすことにある。
そして結晶化は、その負債ごと組織を一度、創造的破壊にかける局面だ。重複するマイクロシステム、矛盾する業務フローをあえて衝突させ、一体の構造へ再構築する。その先に立ち上がるものは、結果として青写真が目指した姿へ収斂していく。違いは設計の起点だけ。現場の実践から立ち上がった、その一点ゆえに慣性に押し戻されず、業務に根づく。

変革を駆動するデータと知と情熱

歩みはまだ道半ばだ。この先には、車種・車両ごとに閉じていたデータを越境させて束ね、横断的に読み解く。業務のあり方、そして組織のあり方までも変える結晶化が待つ。その先にあるものこそが、AIが当たり前に組み込まれた新しい車両開発のあり方。この標準を先に手にした組織だけが、次の競争優位を握る。
ただし、この道のりを進める燃料は一つではない。土台となるのは、蒸留を経てAIが扱える形に整えられたデータ。そこに意味を与えるのが、現場の判断基準という暗黙知と、それを引き出し変換する技術の知だ。データと知が噛み合って初めて、フェーズは前に進む。
そして、すべてを推し進める最後の要素が、情熱だ。現場には本来の業務があるなかで、さらに上乗せとして改革が求められる。それでも、やらねばならない。その現実を支えるのは、地道な反復に耐え、現場を巻き込み続ける情熱にほかならない。データと、知と、情熱。この三つが揃ってはじめて、変革の取り組みは掛け声で終わらずに結実すると考えている。